日曜日の救急外来。
待合は診察を待つ患者さんやその家族であふれている。「すみません、後どの位待ちますか?」
小さな子供を連れた女性が声をかけていて、受付職員がペコペコと頭を下げる。
「竹浦先生。お願いします」
「はい」私にも処置室から声がかかった。
見ると、30代くらいのスーツ姿の男性が、ストレッチャーの上で苦しそうに胸を押さえている。 額には冷や汗で、苦渋の表情。「とにかく痛いんです。何とかしてください」
患者の訴えでとりあえず痛み止めの注射をするが、原因は心臓かもしれない。
「心電図と胸のレントゲンをお願いします」
私は検査を急いだ。
痛み止めが効いたのか、しばらくして患者は落ち着きを取り戻した。
「ありがとうございます。楽になりました」
起き上がり、ストレッチャーを下りようとする男性。「待ってください。まだ横になっていてください」
心電図からもレントゲンからも悪いものは見つかっていないが、あれだけの苦しみかたはきっと何かある。
「まだ原因が分かっていません。また痛みが出ないとは限りませんから、今日は経過観察のために入院してください」
「ええっ。それは、困ります。今日は大事な商談なんです。行かないわけにはいきません」 男性は勝手に立ち上がった。「ダメですよ。戻ってください」
「とても大切な商談なんです。会社や社員の生活に関わるんです」どうやら男性も必死だ。
しかし、私も医者として止めない訳にはいかない。「もし途中で何かあっても責任がとれません」
「かまいません。自分の意志で行くんです。先生や病院にはご迷惑はかけませんから」 「いや、しかし・・・」しばらく押し問答が続いたけれど私は押し切られ、男性は帰って行った。
昼休み、病棟から応援に降りて来た渚と救急に呼ばれていた大樹と私の3人で昼食をとった。
救急外来の職員休憩室だっ目が覚めると、アパートのベットに眠っていた。 「うぅーん」 頭が割れるように痛い。 あれ?私は昨日どうやって帰ってきたんだろう。 えっと・・・ バーでカクテルを飲んで、迎えを呼んだらって言われて、大樹先生に電話を あー。 もしかして・・・ 恐る恐る後ろを振り返る。 マ、マズイ。 そこには大樹先生がいた。 「起きたのか?」 「は、はい」 恥ずかしくて直視できない。 「呼んだのはお前だからな」 「え、ええーと、確か電話は切ったはずでは、」 「好きな女から着信があれば普通かけ直すだろうが」 はー、確かに。 って、好きな女? 「いきなりマスターが電話に出て驚いたぞ」 「すみません」 「大体、何で記憶がなくなるまで飲むんだよ」 「ごめんなさい」 もう、大樹先生には恥ずかしいところばかり見せている。 「で、結衣ちゃんは?」 どうやらアパートに結衣がいないのが気になるらしい。 「昨日は父親の実家に泊まりに行ったの。月に1度の約束だから」 「へー、どんな人?」 「え?」 「結衣ちゃんのお父さん」 「えーっと、高校時代の先輩で普通の商社マン」 「好きだったんだよな」 どこか探るように聞く。 「大樹先生、誤解しないでください。彼は結衣の父親だけど認知もしてないし、結婚を考えられる相手ではなかったの。初恋の人には違いないけれど、それだけ。結衣が泊まりに行くのも彼の両親の立っての希望で。もちろん、私が結婚するまでって約束だけど」 「ふーん」 まるで興味がない風に返事をして、大樹先生はベットを出
大樹先生がアパートに泊ってから2ヶ月。 あの時はっきり断ったから、声をかけてくることはなくなった。 病院でも、何もなかったように普通に接してくれる。 それが寂しい気がするのは、私のエゴね、きっと。 「杉本さん、今日は日勤だったでしょ?」 勤務時間を過ぎても帰る様子を見せない私に、師長が声をかけた。 最近は労務管理がやかましくて、師長も残業にはピリピリしている。 「すみません。もう、帰ります」 「そう、お疲れ様」 追い立てられるように病棟を後にした私。 かといって、アパートに帰る気にはなれない。 その理由は、今日は結衣がいない日だから。 はー、寂しいな。 今まで子育てに忙しくて、1人がこんなに寂しいなんて思ったことがなかった。 このまま買い物にでも行こうかな。 良さそうな店があれば1人で飲んでもいいし。 こんな時に大樹先生がいたらいいのになあ。 バカバカ、自分が拒絶したんだった。 何考えているんだろう私。 結局足が向かったのは、以前大樹先生に連れられて行った駅前のバー。 「何かお作りしましょうか?」 マスターに声をかけられ、 「ええ、オススメのカクテルをお願いします」 注文してしまった。 「おいでになるのは2度目ですね」 「覚えているんですか?」 「はい。随分酔っていらっしゃいましたから」 はあ、そういうこと。 顔が赤くなってしまった。 「今日はお一人ですか?」 「ええ」 「どうぞ」 と出されたのは、薄いブルーの液体。 「うん、美味しい」 今日、結衣は父親の実家に行っている。
まだ桃子とデートもしたことがないのに、1日結衣ちゃんと過ごした。 行きたかったというパーラーでフルーツパフェを食べ、本屋や洋服屋を周り、スーパーに寄った。 「夕食、何にしようか?」 「うーん」 俺も結衣ちゃんもそんなに料理が得意なわけではない。 できれば、桃子が帰ったときには食事の用意ができているようにしたい。 なおかつ、俺も桃子も結衣ちゃんも好きなメニュー。 結構ハードルの高い難題に、頭を悩ませた。 「そうだ、お鍋にしようか?」 考えてみれば、今は冬ではない。 でも、いいじゃないか。 冷房を効かせてでも、今夜は鍋が食べたい 桃子は鶏肉が好きらしいし、結衣ちゃんの希望はソーセージ。 俺は・・・魚貝が食べたい。 豆腐、白菜、キノコに、〆のうどん。 そういえば寄せ鍋ってどうやって作るんだ? 「結衣ちゃん寄せ鍋作ったことある?」 「えー、大樹先生はないの?」 「うーん、ないなあ」 家は母さんが台所を仕切っていたし、父さんや俺が台所に入ることなんてないし。 「大丈夫、スマフォで検索すればすぐにわかるから」 はあー、今時の子だなあ。 アパートに帰り、桃子の帰宅に会わせて準備を始めた。 結衣ちゃんはとっても手際が良くて、どちらかというと俺の方が使われている気がする。 「もうすぐ帰って来るね」 「ああ。食器と箸持って行った?」 「うん。ゆず胡椒もね」 ゆず胡椒? 「随分大人な物が好きなんだな」 「違う、ママが使うの。結衣は辛いの食べられないから」 「フーン」 子供がいればそうなるのか。 「ただいまー」 「「お帰り」」
10時を回ってようやく結衣ちゃんが部屋から出てきた。 「おはよう」 「・・・」 「ママ、心配そうにお仕事に出かけたぞ」 「・・・」 「ご飯食べる?」 「・・・」 返事はしないつもりらしい。 それでも、結衣ちゃんのために味噌汁は温め、ご飯もよそった。 「結衣ちゃん、ご飯食べちゃって」 「・・・」 やはり返事はせず、不機嫌そうに席に着いた。 「いただきます」 「はい」 どんなに怒っていても、きちんと「いただきます」が言えるのは桃子の躾のお陰かもしれない。 なんだかんだ言って、結衣ちゃんはいい子だ。 「ママに告げ口したの?」 「え?」 「だって」 ああ、俺が桃子に話したことを怒っている訳か。 「本当は結衣ちゃんから話してもらうつもりだったんだ。でも、昨日の夜家に結衣ちゃんがいなくてママがすごく心配したから、黙っていられなかった」 「嘘」 「え?」 「ママは結衣よりお仕事が大事なのに」 はあ? 「そんなことないよ。ママは結衣ちゃんが何よりも大事なんだ。昨日の夜、ちゃんと話しただろう?」 「でも、又お仕事に行ったじゃない。今日は映画に行く約束だったのに。ママなんて・・・嫌い」 「結衣ちゃんっ」 思わず語気を強めた。 結衣ちゃんだって、ママが仕事を頑張っているのはわかってくれたはずだ。 きっと、楽しみにしていた映画がダメになって機嫌が悪いだけ。 こうしてわがままを言ってくれるのは、打ち解けた証拠。 理解はしているんだが・・・ カチャカチャと音をたて、玉子で遊びだした結衣ちゃん。 あまり食欲がないようだ。
翌朝。 いつもより早く目が覚めてしまった。 リビングのフローリングは思いの外堅くて、昨夜はなかなか寝付けなかった。 午前6時。 彼女、イヤもういいだろう。 こうしてアパートに泊めるくらいに心を許しているんだ、桃子って呼んでも問題ないはずだ。 桃子も結衣ちゃんもまだ目覚める様子はない。 昨日の夜は遅くまで起きていたんだから仕方ないか。 そういえば、今日仕事になったって言っていたな。 結衣ちゃんに話すって言っていたのに、きっと話せてないだろう。 昨日の晩は色々あったから。 さて、コーヒーでももらおうか。 うぅーん。と伸びをして立ち上がると、肩と腰が重い。 まいったなあ。 こんな事なら、狭くてもソファーで眠るんだった。 「痛て」 キッチンへ向かいながらつい口をついてでた。 まるでじじいだな。 アパートらしくコンパクトにまとめられたキッチン。 広くはないが良く整理されている。 昨日も遅かったはずなのに、鍋も食器も綺麗に片づけられていて、予約タイマーがセットされていた炊飯器が湯気を出している。 いかにも、手を抜かない桃子らしい。 その時、 「先生?」 背後から声がした。 「おはよう」 「おはようございます。姿が見えないから、帰ったのかと思いました」 普段病院で見せるより少しだけ穏やかな表情。 「目が覚めたから、コーヒーでももらおうかと思って」 「いれましょうか?」 パジャマ姿でスッピンのまま、キッチンに入ってくる。 「いいよ。今日は仕事
ガチャ。 玄関を開け、まず俺が先に入った。 結衣ちゃんは、ドアの前を動こうとはしない。 「ほら、入って」 少し強引に、手を引いた。 ここまで連れてくるのに、結構苦労した。 「ママに会えない」と泣き出す結衣ちゃんを「このまま逃げても何の解決にもならないよ。僕が一緒に行くから、帰ろう」となだめすかしながら連れ帰ってきた。 「結衣っ」 玄関まで駆けよった彼女が、強い口調で名前を呼んだ。 それでも、結衣ちゃんは動かない。 靴も履くことなく、俺を押しのけて部屋の外に出た彼女は 「いつまでそんな所にいるの。早く入りなさいっ」 ギュッと腕を引っ張って、結衣ちゃんを部屋の中に入れた。 「今何時だと思ってるの。小学生が出歩く時間じゃないでしょう」 いつもの冷静な彼女からは想像できない取り乱しようだ。 「結衣はいつからそんなに悪い子になったの」 「そんなに一方的に言うなって」 つい口を挟んでしまった。 「先生は黙っていて。結衣をこんな子にしたのは私の責任なんだから」 「こんな子って、結衣ちゃんはいい子だよ」 「小学生のくせに夜中まで遊び歩いて、どこがいい子なのよ」 話している間に興奮してきたのか、彼女が結衣ちゃんに手を振り上げた。 「オイ、やめろ」 とっさに振り上げられた手をつかむ。 「いい加減にしろ。さっき言っただろう。まずは結衣ちゃんの話を聞け。その上で違うところがあれば言えばいいだろう。お前みたいに一方的にまくし立てたんじゃあ会話にならないじゃないか。冷静になれ」 叱りつけてしまった。 うわぁー。 泣き出す結衣ちゃん。 座り込む彼女。 俺もその場に立ち尽くした。